6 平田良介 Ryosuke Hirata
生年月日 | 1988年3月23日 |
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身長/体重 | 177cm/88kg |
投打 | 右投右打 |
出身地 | 大阪府 |
血液型 | B型 |
趣味 | 漫画集め |
球歴
出身校 | 関目東小-菫中-大阪桐蔭高 |
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ドラフト | 2005年高校生ドラフト1巡目 |
現役 | 中日(2006~) |
記録・受賞歴
年度 | 球団名 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁刺 | 犠打 | 犠飛 | 四死球 | 三振 | 併殺打 | 残塁 | 打率 |
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6 | 中日 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | .000 |
07 | 中日 | 3 | 12 | 1 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 4 | 0 | 1 | .333 |
08 | 中日 | 59 | 97 | 9 | 26 | 3 | 0 | 1 | 32 | 9 | 0 | 1 | 5 | 2 | 7 | 25 | 4 | 21 | .268 |
09 | 中日 | 42 | 85 | 13 | 23 | 7 | 3 | 2 | 42 | 9 | 0 | 0 | 0 | 1 | 9 | 19 | 2 | 16 | .271 |
10 | 中日 | 6 | 12 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 1 | .083 |
11 | 中日 | 113 | 330 | 39 | 84 | 15 | 6 | 11 | 144 | 38 | 1 | 2 | 7 | 0 | 39 | 72 | 10 | 72 | .255 |
12 | 中日 | 91 | 269 | 28 | 58 | 4 | 1 | 11 | 97 | 32 | 1 | 0 | 1 | 2 | 29 | 59 | 9 | 59 | .216 |
13 | 中日 | 118 | 367 | 54 | 106 | 22 | 3 | 15 | 179 | 55 | 1 | 2 | 1 | 1 | 45 | 54 | 13 | 106 | .289 |
14 | 中日 | 119 | 429 | 55 | 119 | 17 | 1 | 11 | 171 | 65 | 7 | 2 | 0 | 4 | 55 | 65 | 13 | 106 | .277 |
15 | 中日 | 130 | 491 | 76 | 139 | 27 | 3 | 13 | 211 | 53 | 11 | 7 | 1 | 0 | 67 | 86 | 5 | 111 | .283 |
経歴
プロ入り前
小学1年から「関目ジュニアスター」で野球を始め、中学時代はボーイズリーグ「大阪北」を経て、「大阪都島」に所属。 萬谷康平(横浜DeNAベイスターズ)とは、家が道を挟んで2軒隣の幼なじみで小学校1年生から中学校1年生までは同じ少年野球チームに所属していた。
大阪桐蔭高校では1年夏から6番でレギュラー、秋から4番を任された。高校時代は辻内崇伸と同期で、辻内の話では、入学直後から練習参加を許されたのは1年生で唯一平田だけだったという。平田が3年の時の1年生に中田翔と岡田雅利がいた。高校通算70本塁打を放つ。
2005年の夏の甲子園大会準々決勝・東北戦で、PL学園・清原和博以来の1試合3本塁打で球史にその名を刻んだ。甲子園通算5本塁打は史上4位。その後、延長戦の末敗れた準決勝の駒大苫小牧戦で最後のバッターとなった。
高校生ドラフトで中日ドラゴンズに1巡目指名される。
9月頃にアジアAAA選手権における韓国戦で右肩を亜脱臼したため手術する予定だったが、予想以上に右肩の状態が良化したのを受け回避する事が決まった。2006年1月9日に中日ドラゴンズ選手寮に入所。2006年シーズンはリハビリに励むこととなった。
プロ入り後
2006年、8月26日に初の一軍昇格を果たし、同日の横浜戦(ナゴヤドーム)の9回裏に英智に替わる代打でプロ初出場を果たすも、木塚敦志の前に三塁ゴロに倒れた。
2007年は、10月4日にプロ初スタメン出場。延長11回裏の満塁の場面で死球を受け、思わぬ形でプロ初打点を挙げる。10月6日の対ヤクルト戦で、プロ初安打を放つ。翌7日の対横浜戦では3安打を放ち、初の猛打賞を記録。終盤の活躍とセンターの堅実な守備が買われ、その年にセンターのスタメンが多かった英智の故障もありクライマックスシリーズにおいては全試合スタメンで起用される。日本シリーズでもホーム試合ではスタメン起用され、第3戦では安打を放ち、第5戦においては相手先発投手のダルビッシュ有から犠飛を打ち、この試合唯一の打点をあげた。なおこの試合に1-0で勝ち、この打点は日本一を決める決勝点となった。この犠飛はストレートを打ったのだが「スライダーを投げられていたら打てなかった」と後日、語っている。日本シリーズでの活躍が認められて12月の球団主催によるハワイへの優勝旅行にも参加する予定だったが出発前日の練習中に足を捻挫し、急遽参加を取りやめた。
2008年の春季キャンプは前述の足の捻挫もあって二軍スタートだったものの、第4クールで一軍に合流。森野将彦が故障で離脱したこともあり、ほとんどのオープン戦にセンターでスタメン出場。森野の代わりとして開幕スタメン入りも確実視されたが、森野が開幕までに回復し、またオープン戦での不本意な成績も相まって、開幕一軍入りとはならなかった。5月16日、森野の怪我による離脱で、二軍で83打数15安打、打率.181、2本塁打と、調子が上がらない中、このシーズン初の一軍昇格、その日の対横浜戦で即スタメン起用された。しかし目立った活躍は見られず5月26日に二軍に降格した。6月11日に再昇格。9月7日、対横浜戦の9回裏一死の場面に代打で登場し、横山道哉から一軍でのプロ初本塁打を放つ。これが同時にサヨナラの殊勲打となった。その後もシーズン終了まで一軍に定着。主に代打で起用された。シーズン終了後の秋季キャンプでは故障離脱してしまい、春季キャンプの二軍スタートが決まる。
2009年は、前述の通り春季キャンプは二軍スタートとなった。一軍に合流することなくキャンプは終了し教育リーグに向かうことになったが、3月17日の阪神との練習試合で一軍に合流。プロ4年目にして初の開幕一軍入りを果たす。藤井淳志、小池正晃、新人の野本圭と外野のポジションを争うことになると思われたが、シーズンが始まると代打でも結果が残せず、4月15日に二軍に降格した。その後8月に一度登録されるが、勝負所での併殺打や三振を繰り返し、9月に再び抹消された。最終的には前年の59試合出場を下回る42試合にとどまるが、打率.271・2本塁打・9打点を記録した。
2010年は、新人の大島洋平や2年目の野本などとの競争に勝てず大半を二軍で過ごし、日本シリーズでも活躍できずに終わった。オフに背番号を8を大島が付けることになったため、西川明の退団で空き番号になっていた40に変更。
2011年は開幕こそ二軍も5月5日に一軍昇格。18日のロッテ戦では同点ホームラン、22日の楽天戦では自身初の4安打を記録。 6月4日の西武戦では9回裏の同点打に加え、延長11回裏に2008年以来、自身2本目となるサヨナラホームランを放った。さらに、その翌日(6月5日)には、9回裏に2日連続のサヨナラホームランを放った。個人の2試合連続サヨナラ本塁打は西武時代の2002年松井稼頭央以来8人目。セ・リーグでは1988年のダグ・デシンセイ以来23年ぶり。中日では初の出来事である。また、前述の活躍もあり6月の月間MVPを初受賞。チームの野手としても2009年6月の和田一浩以来2年ぶりの受賞となった。リーグ優勝が決定した翌日に行われた10月19日の対ヤクルト戦ではプロ入り後初めて4番打者を務めた。中盤以降は調子を落とし1か月以上ホームランが出ない時期などありスタメンを外れる試合も増えたが、最終的には113試合に出場し、打率.255、11本塁打、38打点の成績を残す。守備でもリーグ3位の8補殺を記録するなど、チームのリーグ連覇に大きく貢献し、攻守ともに飛躍を遂げたシーズンとなった。
2012年は初の開幕スタメンに名を連ね3月30日の開幕戦ではチーム第1号のホームランを記録。主に7番を打っていたがその後、森野将彦の故障により3番を打つこともあった。しかし5月にぎっくり腰を患い二軍落ちを経験した。最終的には本塁打は前年と同じく11本だったものの、安定感を欠き打率.216と低迷し、出場試合数も前年より減った。
2013年は開幕一軍を勝ち取ったものの松井佑介にスタメンを奪われると、33打席で1本もヒットを打てずに登録抹消された。5月10日に昇格を果たしても暫くは結果が出ていなかったが、6月23日の対巨人戦では2回に先制のソロ本塁打、7回にはダメ押しとなる3ラン本塁打を放ち、チーム3年振りとなる1試合4本塁打のうちの2本を放って勝利に貢献した。その後は右翼レギュラーに定着し最終的に規定打席には及ばなかったがこれまででいずれも自己最高の打率.289・15本塁打・55打点を記録した。
オフの11月には台湾で行われた「2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイ」の日本代表に選出された。
また背番号の変更が発表され、井端弘和の退団により空き番となった6を付ける事になった。
2014年にはオープン戦から4番・右翼手で固定されてシーズンを迎える。序盤は好調を維持していたものの長くは続かず、交流戦から6番に下がる。6月27日の対阪神戦で邪飛を追った際に右足首を捻挫し、約1ヶ月間戦列を離れたものの、プロ9年目にして初めて規定打席に到達した。
2015年7月16日に、第1回WBSCプレミア12の日本代表第1次候補選手に選出された事が発表された。9月10日に、第1回WBSCプレミア12の日本代表候補選手に選出された事が発表された。オフの10月9日に、第1回WBSCプレミア12の日本代表最終ロースター28名に選出された事が発表された。11月26日、名古屋市内で開かれた球団納会で谷繁元信監督より来季の主将に任命された。
プレースタイル
高校通算70本塁打。50メートル5秒7の俊足と遠投110メートルの強肩を併せ持つ。その神主打法は独特の美しさを持ち、「燃えよドラゴンズ!」2006では「ときめく平田のあの構え」と歌われている。しかし、2011年の春季キャンプには当時監督の落合博満と打撃コーチの石嶺和彦の指導により打法を改造している。目深にヘルメットを被るのもトレードマークである。2011年以降はオレンジ色のバットを使用している。
落合からはドラフト時に「この年のドラフトで俺が認めたのは平田だけ。そういう選手がいない年だってある。あれだけ振れる選手はそうはいない。鍛えれば俺以上の打者になる」と高く評価され、守備についても「ドラゴンズの外野守備でいちばんうまい」と賛辞を送られている。
人物
大の漫画好きで、少年漫画だけでなく少女漫画も読む。大阪市の実家には約900冊のコレクションがあるほど。その中から『ドカベン』『涼風』をはじめ、手放せない愛読書を約200冊厳選して寮に持参した。
またかなりのゲーマーでもあり、特に『みんなのGOLF』『ウイニングイレブン』『実況パワフルプロ野球』シリーズはかなりやりこんでいる。『ウイニングイレブン』ではネット対戦で全国151位、『実況パワフルプロ野球』では同じく30位台まで上昇したことがあるという(いずれも本人の自己申告による)。『ウイニングイレブン』では「弱いチームで勝つ方がポイントがたまりやすい」という理由から主にFCコペンハーゲンでプレイしており、フォーメーションは守備重視の「6-3-1」をよく使う。
1歳年上の夫人がいる。経緯は2007年秋ごろから接する機会があり、そこから3年間の交際を経て2010年5月に婚姻届を提出した。同年12月には長男が誕生している。2013年には長女が誕生した。その夫人の影響でももいろクローバーZのファンになり、2013年からは打席時の登場曲に使用している。
大阪ドームが自宅から近かったこともあり、子どもの頃は近鉄バファローズのファンであった。当時好きだった選手として中村紀洋の名前を挙げており、中村の中日在籍時には、ファン目線で「ノリ」と呼びそうになったと語っている。
2009年の自主トレで、同じ大阪桐蔭高校出身の千葉ロッテマリーンズ(当時)の西岡剛、北海道日本ハムファイターズの中田翔とトリオ「好奇心」結成。自主トレの数日前に西岡がクイズ!ヘキサゴンIIで「おバカキャラ」と位置づけされたのを踏まえて、「西岡さんはおバカキャラというか天然なんで…。羞恥心じゃなく好奇心でいきますよ」ここから好奇心が結成した(ちなみに3人の共通点はいずれも高校時代4番を担い、高卒でプロに入り、さらにドラフト1位指名で入団している)。
CBC『サンデードラゴンズ』内の「優子の野球相談室」で小倉優子から平田りんというあだ名をつけられている。
ヒーローインタビューで度々名言を残している。2011年の2戦連続サヨナラホームランの時には、6月4日は「明日はデーゲームですので、お酒は控えるようにして下さい」と、5日は「明日はナイターです。お酒をたんまり飲める、時間があります。しっかり飲んで、明日の6時プレイボールまでにお酒を抜いて応援して下さい」と、2日連続で「酒ネタ」を披露した。この「酒ネタ」は、その後のヒーローインタビューで、中日の他の選手(佐伯貴弘、小田幸平、小池正晃)にも使われた。
2014年からは上述の通り、落合が現役時代に付けていた背番号6を付けることになったが、会見ではその事に触れられると「知らなかった」と発言。その上で「好きな番号だったので選んだ。自分なりの6番にしたい」と抱負を語った。また東海ラジオのスポーツ番組出演時には落合GMとのやり取りについても明かし、当初は背番号9を提示されるも前年まで同じ外野手の野本圭が背負っていたことを理由に固辞したと語った。次いで希望の番号を問われて6と答え、落合から「誰が着けてたか知ってるか?」と質問されたと語っている。
2015年からは、この年に加入した亀澤恭平や遠藤一星とともに、ムードメーカーとしてチームを盛り上げている。元々は平田が「ファンの方に喜んでもらえるように」と亀澤に呼びかけ、得点が入った際に中継カメラに向かってパフォーマンスを披露するようになり、後に遠藤も加わるようになった。
2015年8月1日の巨人戦にて、東京ドーム左翼席上にあるキリンビール「一番搾り」看板に直撃する特大ホームランを打ち、キリンビールマーケティング株式会社より賞金100万円と「キリン一番搾り」1年分を贈呈された。